ルソー『人間不平等起源論』の冒頭の訳について

ルソー『人間不平等起源論』は冒頭の部分が難物である。

 

原文は

C’est de l’homme que j’ai à parler ; et la question que j’examine m’apprend que je vais parler à des hommes 

 

私が語らなければならないのは人間についてである。しかもが検討している問題は、私が〔正しい〕人間に話しかけようとしていることを、私に教えてくれる(岩波文庫)。

 

わたしが語ろうとするのは人間についてであり、この問題を検討しながら、わたしは人々に語りかけることになるだろう(光文社文庫)。

 

岩波版は逐語訳だが、光文社版は

la question que j’examine m’apprendのm’apprend

を訳していない。

 

続き

 

car on n’en propose point de semblables quand on craint d’honorer la vérité

 

というのは、真理を尊重することを恐れるとき、ひとはこのような問題をけっして提出しないからである(岩波)。

 

真理を称えるのを恐れる人々は、このような問題を提起することはないはずだ(光文社)。

 

ここでも岩波版は一語一句訳しているが、光文社版は原文にあるcar もne point も訳していない。さらに、原文にない「はずだ」を入れている。

 

どうやら、難所は parler à des hommes であろう。そこで岩波は話しかける人間に〔正しい〕を加えた。

 

しかし、辞書を引くと、parler à には「訟えかける」という強いニュアンスの訳語がある。それを言い換えたのが次の文のdéfendraiであろう。つまり、ここは法廷弁論風に「訟えかける」とするのがよい。

 

続き、

 

Je défendrai donc avec confiance la cause de l’humanité devant les sages qui m’y invitent, 

 

すると、『人間不平等起源論』の冒頭の訳はこうなる。

 

私の話の主題は人間についてである。そしてこの不平等の起源という問題

を検討して分かることは、私は人々に訴えかけることになるということである。なぜなら、このような問題を提起する人たちは決して真実を恐れない人たちだからである。したがって私は私を招請した賢者たちの前で安心して人間のために弁明することになるだろう。

ルソー『社会契約論』の冒頭の訳について

光文社文庫からルソーの『社会契約論』の新訳が出たので図書館で借りてきた読んでみたが、最初からいただけない。

 

"第一章 第一編のねらい

 人は自由なものとして生まれたのに、いたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思い込んでいる人も、じつはその人々よりもさらに奴隷なのである。"(18頁以下)

原文は

L’homme est né libre, et partout il est dans les fers. Tel se croit le maître des autres qui ne laisse pas d’(依然として〜)être plus esclave qu’eux.

であり、ここまではよい。

 

しかし、その後がおかしい。原文は

Comment ce changement s’est-il fait ? Je l’ignore. Qu’est-ce qui peut le rendre légitime ? Je crois pouvoir résoudre cette question.

 

"この逆転はどのようにして起こったのだろうか。それについては(わたしは)知らない。それではどうしてその逆転を正当化できたのだろう。わたしはこの問いに答えられると思う。"

 

ここで「正当化する」と訳された個所は原文ではrendre légitimeであり、「合法なものとする」という意味である。さらに「できただろうか」と過去の話にしているが、そうではなく、「できるだろうか」でこれからの話なのである。

 

 この本の訳者はこの冒頭の有名な文章を岩波文庫の訳と同じように、「人間は生まれながらにして自由なのに、圧政によって全員が奴隷状態に置かれてしまっている。これをなんとか正しい状態に戻さねばならない」と言っているかのように訳しているのである。

 

「どうしてその逆転を正当化できたのだろう」。こんなでたらめなことは許されないはずだ、と言いたいかのようである。

 

 しかし、この文章の主眼は人間の生まれついての自由ではなく、どんな人間をも縛り付けている鎖のほうなのである。そして、ルソーはこの社会の鎖=社会的秩序をどうすれば正しいものにできるかをこの本で考えようと言っているのである。

 

つぎは

Si je ne considérais que la force et l'effet qui en dérive, je dirais: "Tant qu'un peuple est contraint d'obéir et qu'il obéit, il fait bien; sitôt qu'il peut secouer(払う) le joug(くびき), et qu'il le secoue, il fait encore mieux:

 

これをこの本では

"もしも力と、力によって生まれる効果だけについて考えるならば、わたしは次のよ うに答えるだろう。 「ある人民が服従することを強いられて服従するならば、それはそれで仕方のないことだ。人民がその軛を振りほどくことができ、実際に振りほどこ うとするのなら、それは早ければ早いほうがよい。"

 

と訳しているが、fait bienは「仕方のないことだ」ではなく、「それはよいことだ」であり、fair mieux 「早ければ早いほうがよい」ではなく「それはもっとよいことだ」である。

 

つぎは、

car, recouvrant sa liberté par le même droit qui la lui a ravie, ou il est fondé à la reprendre, ou on ne l'était point à la lui ôter. 

 

"人民は、人民から自由を奪った者と同じ権利をもって、みずからの自由を回復することができる。というのも人民には 自由を回復するだけの根拠があるし、そもそも人民から自由を奪うことそのものが根拠のないものだったからである。"

 

ここで「回復することができる」とあるが、「できる」は原文にはない。ここは分詞構文であって「回復するとき」や「回復するのだから」であり、ここは後者であろう。

 

そのつぎのこの訳の「というのも」以下に相当する原文は、ou 〜 ou 〜の選択文であり、分詞構文「〜のだから」に対して、その理由ではなく、「〜ということになる」と結果を示す文である。

 

ou 〜 ou 〜は英語では either 〜 or 〜 であり、「〜であるか、さもなければ〜である」を意味する。

 

これは直訳すると

「人民が自由を回復するのは根拠にあることであるか、さもなければ、人民から自由を奪うことは根拠のないことである」となる。どういうことか。

 

これが力が正義である場合についての議論であることを、ここで思い出す必要がある。さらに、英語でA or Bを「AにあらんずんばBである」とAを否定的に訳すテクニックも思い出すと、

 

もし人民が自由を回復するのが根拠のないことなら、人民から自由を奪うことも根拠のないことになる。

 

全部を続けると、

 

人民は、人民から自由を奪ったのと同じ権利をもって、みずからの自由を回復するのであるから、もし人民が自由を回復するのが根拠のないことなら、人民から自由を奪うことも根拠のないことになる。逆に、もし人民が自由を回復するのが根拠のあることなら、人民から自由を奪うことも根拠のあることになる。強者の権利とはそういうことなのである。

 

これがルソーの言いたいことである。

 

 一方、この本の訳ではここで「人民の自由は固有の権利だ」と言ってるように見えるが、ルソーはここではそんなことは全然言っていない。ルソーはこの段落で、力の論理に従う限り、人民が自由を回復する根拠となるのものも、支配者が人民を従える根拠となるものも同じようなもので、どちらが正しいとは言えないと言ったまでなのである。